歯科麻酔認定医習得後
歯科麻酔認定医は全国でも人数が少なく、また更新が非常に難しい為現役1400人歯科医師数の1%と言われ、
レアな職業でもあります。私は厚生労働省の仕事で沖縄県重度心身障害児全身麻酔下歯科治療の麻酔科医として、
沖縄県で全身麻酔の仕事をおこなったり、
カルフォルニアロマリンダ大学、フィンランドトゥルク大学で研修を受け、
技術の向上を続け埼玉県総合リハビリテーションセンターで障害者の歯科治療を行いました。
全身麻酔、静脈内鎮静法やモニタリングを行いながらの歯科治療は歯科麻酔の認定医が必要な為、
大学病院からの派遣で4年間こちらのセンターで働きました。
この時に妻と出会いました。リハビリテーションセンターでも多くを学びました。歯周病、そして歯内療法。
私はこの頃から歯内療法の難しさを感じていました。入れ歯クラウンブリッジ、保存修復等ある程度の自信がありました。
ただ、歯内療法だけはなぜかうまくいきませんでした。1999年頃から澤田則弘先生の指導の元顕微鏡で治療をするようになりました。
また、センターでの仕事はほとんどが定時の為、経営の勉強を数多く行いました。簿記、会計、有価証券、債権、不動産、経営学。
インターネットがやっと普及し出した頃です。そして私たちの理念の一つであるおもてなしの心。
私のヨットの恩師、高橋拓也さん、それから帝国ホテルから学びました。ゲストに対しての細かい配慮、過度に干渉しない、
拓也さんからは毎日のヨットの上でたくさん学ばせていただきました。
なぜヒロ横浜デンタルは根管治療なのか?
私は、卒業以来いろんな科を周り、いろんな臨床をしいかに再治療が多いか、
また経済効果の為に歯が失われているのを沢山見て来ました。
特にその原因が根管治療にありました。
日本の場合根管治療のような大変難しい技術が、社会的にも非常に低い対価になっており、
ほとんどの根管治療には再治療が必要なケースが多く、根管治療が不良にも拘らず、高価な補綴物が入っている。
これは沼に家を建てているのと変わらない状況は、初心者のドクターですら解るものでした。
そして根管治療は難しく対価が低いせいなのか、残せる歯を抜歯してインプラントに変えられてしまいます。
私は小さい頃から、物が治すのが大好きだったので、まだまだ機能する歯がどんどん抜歯されているこがとても遺憾でした。
この日本、世界の現状として私は何が1番の原因なのかと考えたときに、
まずは技術と鍛錬の不足。それから経営力の不足だと思いました。
開業医の多くの先生は借金に追われ、休む間もなく働く方が多く
私は借金をいかに減らして開業し最初は中古で行うことを考えていました。
そうすれば、経営に追われる事なく、残せる歯を残し一生自分の歯で食べられる様にできると思いました。
自分の技術力不足、経営力の無さで患者様の歯を失うことは私にはできませんでした。
今医療法人社団ヒロ横浜デンタルにいるスタッフは、その理念に共感した人たちが集まっており、
これからもそうあり続けます。昔も今もこれからも、天然の歯に勝るものは無いと思っております。
私は開業前にインプラントを勉強しようとストローマンジャパンのトップである勝山先生のクリニックに歯科麻酔医として勤務しました。
勝山先生は日本でもトップクラスのインプラント埋入数を誇り、日本のインプラントの教育者でもあります。
その先生が、私の根管治療の思いと根管治療の重要性をいち早く察知し、
インプラントセンターの中で根管治療センターを立ち上げました。
勝山先生はインプラントの第一人者であるにも関わらず、
“ 浩!これからはマイクロエンドの時代だ。抜いてインプラントにするという時代は終わる。
ここに来る患者の歯を全てお前がチェックして、治せる歯は治し、治せないものだけインプラントにするんだ”
私は驚きました。インプラントの第一人者がこのような発言をする。
私は、勝山先生は真の歯科医師だと確信して一緒に治療させていただきました。
ここからが、私のマイクロエンドの歯科医師人生がスタートしました。
倒れる!3年間仕事せず
私は勝山先生の所で、ほぼ休み無く働いきました。休みの日はセミナーに参加し、忙しい毎日を送っていました。
しかしある時期から眠れなくなり、倒れてしまいました。結婚してほんの数日。私は動けない状態になりました。
人間は弱くなると全く動けなくなってしまいます。自分が情けなく、無力でこれからどうしていこうかと思いました。
こんな体ですから、妻や子を養う能力もない。私は妻に別れてもらうように伝えました。
妻は“こんな状態の人を置いて行けません”と言ってくれました。本当の愛情を感じました。
その時の上司勝山先生も“ 俺がしばらく面倒を見る”と言って私を支えてくれました。
義理の両親もまた、不安を抱えながら私を見守ってくれました。3年間私は今までの人生を振り返りました。
元気だった頃、苦しかった頃、若かった頃。弱い立場、自分が動けなくなった時に初めて見えた光景がたくさんありました。
500メートル先の郵便局に、歩いて行けない状態でした。元気な頃であれば、
“コイツは甘えているだけだ”と思っていました。ただ、自分がその立場になって初めて人の弱さに気づきました。
そんな弱った毎日を救ってくれたのは、周りの人々、家族、そしてヨットでした。
私はあてもなく風と遊び、海を漂っていました。
すると段々と身も心も健康に戻り、徐々に経営の勉強をするようになりました。
次はお前の番だ
話は少し前後してしまいますが、
開業して10年目に台湾出身の高先生がヒロ横浜デンタルの門を叩いて来ました。
ヒロ横浜デンタルはいろんな先生、たくさんの医療従事者に見学していただくことで、
少しでも社会の役に立てるのであれば、見学していただいている方針です。
高先生は大変真面目で、熱心に見学されていました。
高先生は“私もこの様な根管治療をしてみたい!
今勤めている医院での根管治療で自分は医原性の病気を作っています。
ここで働かせてください!私は前の職場を退職して来ました!”
高先生は精神的にも身体的にも消耗し、お昼ご飯を食べられない状況でした。
さらに、数週間の間に職がなければ台湾に帰国しなくてはいけない状況だったのです。
私たちは数日時間を頂きました。私は悩みました。当時、研修医を3人抱えた状態で、ユニットも3台でしたから、
新しいドクターの採用を考えてはいませんでした。今でも、研修医を抱えることにより1週間で3日間は夜の11時を超え、
休日やお昼休みも返上で、実習することもよくありました。スタッフ、藤野先生の負担も考え、悩みました。
私はその時、ご先祖様の掛け軸の前に座りました。
ご先祖様からこんな声が聞こえて来ました。
“力のある人間が助けなくてどうする。困っている人間を助けるんだ。先代がしていたように。”
勝山先生からも“浩!お前勝ったんやろ?今度はお前が人を救う番だ。” そんな声が聞こえて来ました。
私はこの思いを現在の藤野院長に伝えました。実際のところ、研修医の教育の半分以上を藤野院長が請け負っていました。
彼への負担はとても大きいものでした。“高橋理事長、一緒に高先生を救いましょう”藤野先生は言ってくれました。
私は感謝の思いを藤野院長に伝えました。藤野院長は“私たちの理念、思いやりに従っただけです。”
私は胸が熱くなりました。思いやりの精神、そしてそれがしっかりと院長に伝わっていた事。
高先生は2023年現在、歯内療法認定医と、現在ヒロ横浜デンタルの学術委員長を務め、
来年度ペンシルバニア大学インターナショナルプログラムを取得の予定です。














